我が事(ミャンマー井戸掘りプロジェクトから)

ミャンマーにおける井戸設置の支援

 ミャンマーで現地医療や教育支援を行っているMFCG、その井戸堀りと水浄化装置の設置プロジェクトの新聞記事について考えてみました。医療活動も含めた生活用水の品質向上を目指したプロジェクトです。

 このプロジェクトは、ミャンマーの村に井戸を掘り、そこに設置される浄化装置によって常に安全な飲み水の供給するものですが、その計画段階から実際の井戸掘り、浄化装置の設置、その後のメンテナンスに至るまで、全ての工程で現地の方たちに参加してもらい、協力して作業を進めることを意識していたと思います。そうは言っても、当初はその必要性に実感を持って貰えず、説明によって理解を深めても、それを「我が事」として受け止めるまで時間が掛かったようです。村人たちが日々の生活の中でやらなければならない仕事を優先する中で、井戸掘りプロジェクトへの関心を維持するのに、かなり苦慮された状況が伝わってきます。しかし辛抱強く会合を持ち続け、次第に村人たちが「我が事」として受け止め、最後は、目的を共にする一つの共働体となって行けた状況が伺えます。

 何よりもその「井戸」を、自分たちの村にとって掛け替えのないものとして受け止め、仮に故障しても自らの力で修理する意欲と能力を村人たち自身が身に着けることができた事例でしょう。

「我が事」とは

 人が何かに対してそれを「我が事」として考えるのは、何か正しいことを外から教わったり勧められるだけではなく、自分自身がそれを必要としていることに気付き、自らそれに取り組むことが重要だと思えるようになる、このシュエバゴン村の井戸掘りプロジェクトの教訓は、改めてそうしたことに気付かされる事例です。「我が事」として考えるようになれば、それに対して責任を感じ、様々な洞察も働き始めます。

 しかしこれは、シュエバゴン村の村人たちについてだけではなく、支援する側のMFCGのスタッフについても、同じように当て嵌まることのように思います。MFCGのスタッフの皆さんは、どうしてこの井戸掘りプロジェクトを「我が事」として受け止めているのでしょう?それは「支援」だから、それとも何か「出会い」が特別だったからでしょうか?この記事の冒頭の名知代表のコメントにもあるように、「最終目的は当会(MFCG)が必要なくなること」、本当に気の遠くなるような取り組みに対する覚悟が伝わってきますが、そうした中で医療支援を現地で続けるスタッフの皆さんにしか判らない実体験や肌感覚が、この井戸掘りプロジェクトを「我が事」にしているのでしょう。このプロジェクトは、現地の村人たちとMFCGのスタッフ両者の「我が事」の結び合いによって成り立っていると言えそうです。最後は支援する側とされる側の境もなく、一つにつながっていったように思えます。

私たちの「我が事」

 一方、我々が暮らす日本は、社会が高度に分業化された経済社会として成り立ち、自ら飲み水を確保する為に井戸を掘ることはなく、生活全般の大抵のことはサービスとして提供され、それをお金を支払って利用することが当たり前です。お金によって高度にシステム化された非常に便利な社会ですが、逆に「我が事」の結び合いを意識する機会が減少して、そうした経験を見つけ難い社会になっているように思えます。そうした中で先日、熊本を再び大きな地震が襲いました。そこで全国の様々な思いのある方からの支援が現地に寄せられていると聞いています。被災した方たちと、支援を申し出た方たちの「我が事」の結び合いが起きているのでしょう。もしかすると、そうした事が、我々の「我が事」を回復させる契機なのかも知れません。

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